大航海時代
今日は「大航海時代」について学びます。
この時代は、世界のつながりが一気に広がり、
今の国の力関係のもとになった、とても大切な時代です。
まず、なぜ大航海時代が始まったのかを考えてみましょう。
中世のヨーロッパでは、香辛料や絹などのアジアの品物がとても貴重でした。
しかし、それらはイスラム商人を通して運ばれていたため、値段がとても高かったのです。
そこでヨーロッパの国々は、
「自分たちで直接アジアへ行けないだろうか」と考え始めました。
ここで最初に動き出したのが、スペインとポルトガルです。
では、なぜこの2国が先行できたのでしょうか。
理由の1つ目は、地理的に有利だったことです。
スペインとポルトガルは、ヨーロッパの西のはしにあり、
すぐ目の前が大西洋でした。
そのため、アフリカへも、西の海へも、すぐに船を出すことができました。
理由の2つ目は、イスラム勢力との戦いを終えた直後だったことです。
15世紀後半、スペインとポルトガルは「レコンキスタ」という戦争で、
イベリア半島からイスラム勢力を追い出しました。
戦争を終えたことで、
強い王の力、戦争で鍛えられた人々、次は海外へ向かう意欲がそろいました。
理由の3つ目は、航海技術が進んでいたことです。
特にポルトガルでは、羅針盤や新しい船、正確な地図作りが進み、
国が航海を積極的に支援しました。
これによって、長い航海が可能になったのです。
次に考えたいのは、当時栄えていたイタリアです。
なぜイタリアは、大航海時代に出遅れてしまったのでしょうか。
理由の1つ目は、すでに地中海貿易で成功していたことです。
ヴェネツィアやジェノヴァなどの都市は、
イスラム商人と直接貿易を行い、香辛料で大きな利益を得ていました。
そのため、危険な大航海に出る必要がなかったのです。
理由の2つ目は、地理的な問題です。
イタリアは地中海の中央にあり、
大西洋へ出るには他国の領土を通る必要がありました。
船出しにくい位置だったのです。
理由の3つ目は、国が一つにまとまっていなかったことです。
イタリアは多くの都市国家に分かれており、
国として大航海を支援する力がありませんでした。
こうして大航海時代が進むと、
貿易の中心は地中海から大西洋へと移っていきました。
その結果、イタリアの都市はしだいに国際貿易の中心から外れていきます。
次に、ポルトガルの衰退とオランダの台頭について見ていきましょう。
ポルトガルは、香辛料貿易で一時は大きな力を持ちました。
しかし、しだいに衰えていきます。
理由の1つ目は、人口が少なかったことです。
広い植民地を管理する人手が足りませんでした。
理由の2つ目は、商業や金融を他国に任せてしまったことです。
香辛料を運ぶ船や、お金の管理を、
オランダやイギリスに頼るようになりました。
その結果、利益をうまく生かせなくなったのです。
ここで力をのばしたのが、オランダです。
オランダは、スペインの支配から独立した国でした。
商業や金融がとても発達しており、
戦争よりも商売を重視しました。
1602年、オランダは東インド会社をつくります。
この会社は、貿易だけでなく、軍隊や条約の権利も持っていました。
会社が植民地経営を行ったことが、オランダの大きな特徴です。
オランダは、広い土地よりも、
港や航路など「もうかる場所」をおさえました。
その結果、17世紀にはヨーロッパ最大の商業国になります。
では、イタリアはその後どうなったのでしょうか。
地中海貿易が衰えると、
イタリアの都市は国際貿易の中心ではなくなりました。
しかし、芸術や文化の中心としての役割は残り、
ルネサンス文化はヨーロッパ全体に広がっていきました。
最後に、なぜイギリスが最終的に台頭したのかを見ていきます。
イギリスは、工業・貿易・海軍を同時に発展させた国でした。
植民地から原料を集め、国内で工業製品を作り、世界に売りました。
また、強力な海軍を持ち、
海の道を支配することで貿易を守りました。
政治も安定しており、商人が活躍しやすい国でした。
18世紀後半には産業革命が起こり、
イギリスは「世界の工場」と呼ばれるようになります。
このように、
スペイン・ポルトガルから始まった大航海時代は、
オランダ、そしてイギリスへと主役が移っていきました。
大航海時代は、
世界が一体化するきっかけとなった一方で、
植民地支配や奴隷制度という大きな問題も生み出しました。
次の授業では、
植民地支配の問題点や、三角貿易について学んでいきましょう。
この時代は、世界のつながりが一気に広がり、
今の国の力関係のもとになった、とても大切な時代です。
まず、なぜ大航海時代が始まったのかを考えてみましょう。
中世のヨーロッパでは、香辛料や絹などのアジアの品物がとても貴重でした。
しかし、それらはイスラム商人を通して運ばれていたため、値段がとても高かったのです。
そこでヨーロッパの国々は、
「自分たちで直接アジアへ行けないだろうか」と考え始めました。
ここで最初に動き出したのが、スペインとポルトガルです。
では、なぜこの2国が先行できたのでしょうか。
理由の1つ目は、地理的に有利だったことです。
スペインとポルトガルは、ヨーロッパの西のはしにあり、
すぐ目の前が大西洋でした。
そのため、アフリカへも、西の海へも、すぐに船を出すことができました。
理由の2つ目は、イスラム勢力との戦いを終えた直後だったことです。
15世紀後半、スペインとポルトガルは「レコンキスタ」という戦争で、
イベリア半島からイスラム勢力を追い出しました。
戦争を終えたことで、
強い王の力、戦争で鍛えられた人々、次は海外へ向かう意欲がそろいました。
理由の3つ目は、航海技術が進んでいたことです。
特にポルトガルでは、羅針盤や新しい船、正確な地図作りが進み、
国が航海を積極的に支援しました。
これによって、長い航海が可能になったのです。
次に考えたいのは、当時栄えていたイタリアです。
なぜイタリアは、大航海時代に出遅れてしまったのでしょうか。
理由の1つ目は、すでに地中海貿易で成功していたことです。
ヴェネツィアやジェノヴァなどの都市は、
イスラム商人と直接貿易を行い、香辛料で大きな利益を得ていました。
そのため、危険な大航海に出る必要がなかったのです。
理由の2つ目は、地理的な問題です。
イタリアは地中海の中央にあり、
大西洋へ出るには他国の領土を通る必要がありました。
船出しにくい位置だったのです。
理由の3つ目は、国が一つにまとまっていなかったことです。
イタリアは多くの都市国家に分かれており、
国として大航海を支援する力がありませんでした。
こうして大航海時代が進むと、
貿易の中心は地中海から大西洋へと移っていきました。
その結果、イタリアの都市はしだいに国際貿易の中心から外れていきます。
次に、ポルトガルの衰退とオランダの台頭について見ていきましょう。
ポルトガルは、香辛料貿易で一時は大きな力を持ちました。
しかし、しだいに衰えていきます。
理由の1つ目は、人口が少なかったことです。
広い植民地を管理する人手が足りませんでした。
理由の2つ目は、商業や金融を他国に任せてしまったことです。
香辛料を運ぶ船や、お金の管理を、
オランダやイギリスに頼るようになりました。
その結果、利益をうまく生かせなくなったのです。
ここで力をのばしたのが、オランダです。
オランダは、スペインの支配から独立した国でした。
商業や金融がとても発達しており、
戦争よりも商売を重視しました。
1602年、オランダは東インド会社をつくります。
この会社は、貿易だけでなく、軍隊や条約の権利も持っていました。
会社が植民地経営を行ったことが、オランダの大きな特徴です。
オランダは、広い土地よりも、
港や航路など「もうかる場所」をおさえました。
その結果、17世紀にはヨーロッパ最大の商業国になります。
では、イタリアはその後どうなったのでしょうか。
地中海貿易が衰えると、
イタリアの都市は国際貿易の中心ではなくなりました。
しかし、芸術や文化の中心としての役割は残り、
ルネサンス文化はヨーロッパ全体に広がっていきました。
最後に、なぜイギリスが最終的に台頭したのかを見ていきます。
イギリスは、工業・貿易・海軍を同時に発展させた国でした。
植民地から原料を集め、国内で工業製品を作り、世界に売りました。
また、強力な海軍を持ち、
海の道を支配することで貿易を守りました。
政治も安定しており、商人が活躍しやすい国でした。
18世紀後半には産業革命が起こり、
イギリスは「世界の工場」と呼ばれるようになります。
このように、
スペイン・ポルトガルから始まった大航海時代は、
オランダ、そしてイギリスへと主役が移っていきました。
大航海時代は、
世界が一体化するきっかけとなった一方で、
植民地支配や奴隷制度という大きな問題も生み出しました。
次の授業では、
植民地支配の問題点や、三角貿易について学んでいきましょう。
大航海時代と植民地支配の広がり
今日は「大航海時代と植民地支配の広がり、そしてその衰退」について学びます。
スペイン・ポルトガル・オランダ・イギリスの4つの国が、
いつごろから、どこを、どのように植民地にし、
いつ最も栄え、なぜ衰退していったのかを、時代の流れで理解することが目標です。
まず、植民地とは何かを確認します。
植民地とは、ある国が軍事力や政治力を使って、
他の地域を支配し、その土地の人々や資源を、
自国の利益のために利用した場所のことです。
それでは最初に、ポルトガルから見ていきましょう。
ポルトガルは、15世紀前半から植民地支配を始めました。
アフリカ西岸を少しずつ探検し、
航海の安全なルートを確かめながら南へ進みました。
1498年、バスコ=ダ=ガマがインドに到達します。
ポルトガルは、
インドのゴア、マレー半島のマラッカ、
インドネシア周辺の港を拠点として支配しました。
さらに、南アメリカのブラジルも植民地にしました。
ポルトガルの植民地支配の特徴は、
広い土地を支配するよりも、
港や貿易の拠点をおさえる方法でした。
香辛料貿易で大きな利益を得ました。
ポルトガルの最盛期は16世紀前半です。
しかし、人口が少なく、
植民地を管理する力が弱かったこと、
貿易や金融を他国に任せてしまったことから、
17世紀になると衰退していきました。
次に、スペインです。
スペインは1492年、コロンブスの航海をきっかけに、
植民地支配を始めました。
スペインは主にアメリカ大陸へ進出しました。
16世紀、スペインは、
現在のメキシコでアステカ王国を、
現在のペルーでインカ帝国を征服しました。
さらに、フィリピンも植民地にしました。
スペインの植民地支配は、
軍事力で征服し、
金や銀を大量に手に入れる方法でした。
先住民を鉱山や大農園で働かせました。
スペインの最盛期は16世紀後半です。
しかし、金銀に頼りすぎたため、
国内の工業や商業が発達しませんでした。
また、戦争に多くのお金を使い、
17世紀以降、国力は急速に低下しました。
では、次にオランダを見ていきます。
オランダは16世紀後半、
スペインの支配から独立しました。
17世紀になると、植民地支配に本格的に参加します。
オランダは、1602年に東インド会社をつくりました。
この会社が、国に代わって植民地経営を行いました。
オランダは、
インドネシアを中心に、
香辛料の産地や港を支配しました。
広い土地よりも、もうかる場所を重視しました。
オランダの植民地支配の特徴は、
戦争よりも商売を重視したことです。
17世紀がオランダの最盛期です。
しかし、国土が小さく人口も少なかったため、
イギリスとの競争に負け、
18世紀には力を失っていきました。
最後に、イギリスです。
イギリスは17世紀後半から植民地支配を広げました。
18世紀から19世紀にかけて、
世界最大の植民地帝国を築きます。
イギリスは、
北アメリカ、インド、オーストラリア、
アフリカ各地を植民地にしました。
イギリスの植民地支配は、
原料を植民地から取り、
工場で製品を作り、
再び植民地に売るという形でした。
18世紀後半には産業革命が起こり、
工業力と海軍力で世界を支配しました。
19世紀がイギリスの最盛期です。
しかし、20世紀になると、
植民地で独立運動が広がり、
二度の世界大戦で国力が弱まりました。
その結果、植民地帝国は崩れていきました。
ここで、全体をまとめます。
最初に植民地支配を始めたのはポルトガルとスペイン。
次に商業で成功したオランダ。
最後に工業と海軍で世界を支配したイギリス。
植民地支配は、
ヨーロッパの国々を豊かにしましたが、
植民地にされた地域には、
苦しみと不平等を残しました。
この歴史は、
今の世界の国どうしの関係にもつながっています。
今日は、その流れを学びました。
スペイン・ポルトガル・オランダ・イギリスの4つの国が、
いつごろから、どこを、どのように植民地にし、
いつ最も栄え、なぜ衰退していったのかを、時代の流れで理解することが目標です。
まず、植民地とは何かを確認します。
植民地とは、ある国が軍事力や政治力を使って、
他の地域を支配し、その土地の人々や資源を、
自国の利益のために利用した場所のことです。
それでは最初に、ポルトガルから見ていきましょう。
ポルトガルは、15世紀前半から植民地支配を始めました。
アフリカ西岸を少しずつ探検し、
航海の安全なルートを確かめながら南へ進みました。
1498年、バスコ=ダ=ガマがインドに到達します。
ポルトガルは、
インドのゴア、マレー半島のマラッカ、
インドネシア周辺の港を拠点として支配しました。
さらに、南アメリカのブラジルも植民地にしました。
ポルトガルの植民地支配の特徴は、
広い土地を支配するよりも、
港や貿易の拠点をおさえる方法でした。
香辛料貿易で大きな利益を得ました。
ポルトガルの最盛期は16世紀前半です。
しかし、人口が少なく、
植民地を管理する力が弱かったこと、
貿易や金融を他国に任せてしまったことから、
17世紀になると衰退していきました。
次に、スペインです。
スペインは1492年、コロンブスの航海をきっかけに、
植民地支配を始めました。
スペインは主にアメリカ大陸へ進出しました。
16世紀、スペインは、
現在のメキシコでアステカ王国を、
現在のペルーでインカ帝国を征服しました。
さらに、フィリピンも植民地にしました。
スペインの植民地支配は、
軍事力で征服し、
金や銀を大量に手に入れる方法でした。
先住民を鉱山や大農園で働かせました。
スペインの最盛期は16世紀後半です。
しかし、金銀に頼りすぎたため、
国内の工業や商業が発達しませんでした。
また、戦争に多くのお金を使い、
17世紀以降、国力は急速に低下しました。
では、次にオランダを見ていきます。
オランダは16世紀後半、
スペインの支配から独立しました。
17世紀になると、植民地支配に本格的に参加します。
オランダは、1602年に東インド会社をつくりました。
この会社が、国に代わって植民地経営を行いました。
オランダは、
インドネシアを中心に、
香辛料の産地や港を支配しました。
広い土地よりも、もうかる場所を重視しました。
オランダの植民地支配の特徴は、
戦争よりも商売を重視したことです。
17世紀がオランダの最盛期です。
しかし、国土が小さく人口も少なかったため、
イギリスとの競争に負け、
18世紀には力を失っていきました。
最後に、イギリスです。
イギリスは17世紀後半から植民地支配を広げました。
18世紀から19世紀にかけて、
世界最大の植民地帝国を築きます。
イギリスは、
北アメリカ、インド、オーストラリア、
アフリカ各地を植民地にしました。
イギリスの植民地支配は、
原料を植民地から取り、
工場で製品を作り、
再び植民地に売るという形でした。
18世紀後半には産業革命が起こり、
工業力と海軍力で世界を支配しました。
19世紀がイギリスの最盛期です。
しかし、20世紀になると、
植民地で独立運動が広がり、
二度の世界大戦で国力が弱まりました。
その結果、植民地帝国は崩れていきました。
ここで、全体をまとめます。
最初に植民地支配を始めたのはポルトガルとスペイン。
次に商業で成功したオランダ。
最後に工業と海軍で世界を支配したイギリス。
植民地支配は、
ヨーロッパの国々を豊かにしましたが、
植民地にされた地域には、
苦しみと不平等を残しました。
この歴史は、
今の世界の国どうしの関係にもつながっています。
今日は、その流れを学びました。
三角貿易
アフリカ → アメリカ大陸 → ヨーロッパを結ぶ貿易を、
三角貿易といいます。
今日は「三角貿易」について学びます。
三角貿易は、大航海時代から近代にかけて行われた、
とても重要で、同時に大きな問題をもつ貿易のしくみです。
まず、三角貿易とは何かを確認しましょう。
アフリカ → アメリカ大陸 → ヨーロッパ
この三つの地域を結んで行われた貿易を、三角貿易といいます。
地図で見ると、三角形の形になるため、この名前がつきました。
では、なぜ三角貿易が行われるようになったのでしょうか。
ヨーロッパの国々は、植民地を広げ、
砂糖や綿花などを大量に作り、もうけようとしました。
しかし、そのためには、多くの働く人が必要でした。
そこで目をつけられたのが、アフリカの人々でした。
ここから、三角貿易の流れを、順番に見ていきます。
まず、ヨーロッパからアフリカへ向かいます。
ヨーロッパの船は、
鉄製品、武器、布などの工業製品を積んで、
アフリカへ向かいました。
アフリカでは、これらの品物と引きかえに、
人々が捕らえられ、「奴隷」として売られました。
次に、アフリカからアメリカ大陸への航海です。
アフリカからアメリカ大陸へ運ばれた奴隷たちは、
船の中で、非常に苦しい生活を強いられました。
船の中はせまく、
自由に動くこともできず、
病気や飢えで命を落とす人も多くいました。
この航海は、「中間航路」と呼ばれ、
三角貿易の中でも、特に悲惨な部分でした。
次に、アメリカ大陸からヨーロッパへの貿易です。
アメリカ大陸では、
奴隷にされた人々が、
さとうきび、綿花、コーヒーなどを作らされました。
これらの作物は、
砂糖、綿織物などの原料として、
ヨーロッパへ送られました。
ヨーロッパでは、
これらの原料を使って商品を作り、
大きな利益を得ました。
このように、
ヨーロッパ → アフリカ → アメリカ大陸 → ヨーロッパ
という流れで行われたのが、三角貿易です。
では、三角貿易の問題点は何だったのでしょうか。
一番大きな問題は、
人間が物のように売り買いされたことです。
奴隷にされた人々は、
自由をうばわれ、
家族と引きはなされ、
厳しい労働を強いられました。
また、アフリカでは、
多くの人々が連れ去られたため、
社会や文化が大きくこわされました。
三角貿易によって、
ヨーロッパの国々は豊かになりました。
しかし、その豊かさは、
アフリカやアメリカ大陸の人々の犠牲の上に成り立っていました。
この歴史は、
今の世界の差別や格差の問題ともつながっています。
今日のまとめです。
三角貿易とは、
アフリカ → アメリカ大陸 → ヨーロッパを結ぶ貿易です。
アフリカからは奴隷、
アメリカ大陸からは農産物、
ヨーロッパからは工業製品が運ばれました。
三角貿易は、
多くの人々を苦しめた、重大な歴史の出来事でした。
歴史を学ぶことは、
人の命や人権の大切さを考えることにつながります。
三角貿易といいます。
今日は「三角貿易」について学びます。
三角貿易は、大航海時代から近代にかけて行われた、
とても重要で、同時に大きな問題をもつ貿易のしくみです。
まず、三角貿易とは何かを確認しましょう。
アフリカ → アメリカ大陸 → ヨーロッパ
この三つの地域を結んで行われた貿易を、三角貿易といいます。
地図で見ると、三角形の形になるため、この名前がつきました。
では、なぜ三角貿易が行われるようになったのでしょうか。
ヨーロッパの国々は、植民地を広げ、
砂糖や綿花などを大量に作り、もうけようとしました。
しかし、そのためには、多くの働く人が必要でした。
そこで目をつけられたのが、アフリカの人々でした。
ここから、三角貿易の流れを、順番に見ていきます。
まず、ヨーロッパからアフリカへ向かいます。
ヨーロッパの船は、
鉄製品、武器、布などの工業製品を積んで、
アフリカへ向かいました。
アフリカでは、これらの品物と引きかえに、
人々が捕らえられ、「奴隷」として売られました。
次に、アフリカからアメリカ大陸への航海です。
アフリカからアメリカ大陸へ運ばれた奴隷たちは、
船の中で、非常に苦しい生活を強いられました。
船の中はせまく、
自由に動くこともできず、
病気や飢えで命を落とす人も多くいました。
この航海は、「中間航路」と呼ばれ、
三角貿易の中でも、特に悲惨な部分でした。
次に、アメリカ大陸からヨーロッパへの貿易です。
アメリカ大陸では、
奴隷にされた人々が、
さとうきび、綿花、コーヒーなどを作らされました。
これらの作物は、
砂糖、綿織物などの原料として、
ヨーロッパへ送られました。
ヨーロッパでは、
これらの原料を使って商品を作り、
大きな利益を得ました。
このように、
ヨーロッパ → アフリカ → アメリカ大陸 → ヨーロッパ
という流れで行われたのが、三角貿易です。
では、三角貿易の問題点は何だったのでしょうか。
一番大きな問題は、
人間が物のように売り買いされたことです。
奴隷にされた人々は、
自由をうばわれ、
家族と引きはなされ、
厳しい労働を強いられました。
また、アフリカでは、
多くの人々が連れ去られたため、
社会や文化が大きくこわされました。
三角貿易によって、
ヨーロッパの国々は豊かになりました。
しかし、その豊かさは、
アフリカやアメリカ大陸の人々の犠牲の上に成り立っていました。
この歴史は、
今の世界の差別や格差の問題ともつながっています。
今日のまとめです。
三角貿易とは、
アフリカ → アメリカ大陸 → ヨーロッパを結ぶ貿易です。
アフリカからは奴隷、
アメリカ大陸からは農産物、
ヨーロッパからは工業製品が運ばれました。
三角貿易は、
多くの人々を苦しめた、重大な歴史の出来事でした。
歴史を学ぶことは、
人の命や人権の大切さを考えることにつながります。
植民地
今日は「植民地」について学びます。
大航海時代から近代にかけて、世界で何が起こったのかを、
わかりやすく順番に説明します。
まず、「植民地」とは何でしょうか。
植民地とは、強い国が、遠くの土地を支配し、
自分たちの利益のために利用した地域のことです。
その土地に住んでいた人々は、
自分たちで政治を行うことができませんでした。
植民地にした国を「宗主国(そうしゅこく)」といいます。
植民地にされた国や地域は、
宗主国の命令にしたがって働かされました。
では、どのような国が植民地を持ったのでしょうか。
主に、ヨーロッパの国々です。
代表的な国は、
スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランスです。
次に、どこの国が、どこを植民地にしたのかを見ていきましょう。
まず、スペインです。
スペインは、アメリカ大陸に進出しました。
現在のメキシコやペルーなどを支配し、
アステカ王国やインカ帝国を征服しました。
スペインは、アメリカ大陸の銀山から大量の銀を手に入れました。
次に、ポルトガルです。
ポルトガルは、アフリカ沿岸、インド、東南アジアに進出しました。
ブラジルは、ポルトガルの植民地でした。
香辛料の貿易で大きな利益を得ました。
次に、オランダです。
オランダは、東南アジアを中心に植民地を広げました。
特に、現在のインドネシアを支配し、
香辛料の貿易を独占しました。
次に、イギリスです。
イギリスは、北アメリカ、インド、アフリカ、オーストラリアなど、
世界中に植民地を広げました。
イギリスは「太陽の沈まない国」とも呼ばれました。
では、植民地の人々は、どのような労働をさせられていたのでしょうか。
一つ目は、鉱山での労働です。
銀や金などを掘り出すため、
長時間、危険な環境で働かされました。
二つ目は、プランテーションでの労働です。
プランテーションとは、大きな農園のことです。
さとうきび、綿花、コーヒーなどを作らされました。
休みはほとんどなく、給料もとても少なかったです。
三つ目は、建設や港の仕事です。
道路や港を作るために、
厳しい労働をさせられました。
次に、アフリカの奴隷の歴史について説明します。
これは、植民地の中でも、とても大きな問題です。
アメリカ大陸の植民地では、
先住民が、病気や過酷な労働で減ってしまいました。
そこで、ヨーロッパの国々は、
アフリカから人々を連れてきて働かせました。
この人々は、「奴隷」とされました。
奴隷は、人としてではなく、
物のように売り買いされました。
家族と引き離され、自由はありませんでした。
アフリカ → アメリカ大陸 → ヨーロッパを結ぶ貿易を、
三角貿易といいます。
アフリカからは奴隷、
アメリカからは砂糖や綿花、
ヨーロッパからは武器や製品が運ばれました。
植民地支配によって、
ヨーロッパの国々は豊かになりました。
しかし、その一方で、
植民地の人々は、自由を奪われ、苦しい生活を強いられました。
この植民地支配の影響は、
今の世界にも残っています。
貧困や格差、争いの原因になっている地域もあります。
今日のまとめです。
植民地とは、強い国が弱い地域を支配したものです。
ヨーロッパの国々が、アメリカ、アフリカ、アジアを植民地にしました。
植民地の人々は、鉱山や農園で厳しい労働をさせられました。
アフリカでは、多くの人々が奴隷として連れていかれました。
大航海時代から近代にかけて、世界で何が起こったのかを、
わかりやすく順番に説明します。
まず、「植民地」とは何でしょうか。
植民地とは、強い国が、遠くの土地を支配し、
自分たちの利益のために利用した地域のことです。
その土地に住んでいた人々は、
自分たちで政治を行うことができませんでした。
植民地にした国を「宗主国(そうしゅこく)」といいます。
植民地にされた国や地域は、
宗主国の命令にしたがって働かされました。
では、どのような国が植民地を持ったのでしょうか。
主に、ヨーロッパの国々です。
代表的な国は、
スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランスです。
次に、どこの国が、どこを植民地にしたのかを見ていきましょう。
まず、スペインです。
スペインは、アメリカ大陸に進出しました。
現在のメキシコやペルーなどを支配し、
アステカ王国やインカ帝国を征服しました。
スペインは、アメリカ大陸の銀山から大量の銀を手に入れました。
次に、ポルトガルです。
ポルトガルは、アフリカ沿岸、インド、東南アジアに進出しました。
ブラジルは、ポルトガルの植民地でした。
香辛料の貿易で大きな利益を得ました。
次に、オランダです。
オランダは、東南アジアを中心に植民地を広げました。
特に、現在のインドネシアを支配し、
香辛料の貿易を独占しました。
次に、イギリスです。
イギリスは、北アメリカ、インド、アフリカ、オーストラリアなど、
世界中に植民地を広げました。
イギリスは「太陽の沈まない国」とも呼ばれました。
では、植民地の人々は、どのような労働をさせられていたのでしょうか。
一つ目は、鉱山での労働です。
銀や金などを掘り出すため、
長時間、危険な環境で働かされました。
二つ目は、プランテーションでの労働です。
プランテーションとは、大きな農園のことです。
さとうきび、綿花、コーヒーなどを作らされました。
休みはほとんどなく、給料もとても少なかったです。
三つ目は、建設や港の仕事です。
道路や港を作るために、
厳しい労働をさせられました。
次に、アフリカの奴隷の歴史について説明します。
これは、植民地の中でも、とても大きな問題です。
アメリカ大陸の植民地では、
先住民が、病気や過酷な労働で減ってしまいました。
そこで、ヨーロッパの国々は、
アフリカから人々を連れてきて働かせました。
この人々は、「奴隷」とされました。
奴隷は、人としてではなく、
物のように売り買いされました。
家族と引き離され、自由はありませんでした。
アフリカ → アメリカ大陸 → ヨーロッパを結ぶ貿易を、
三角貿易といいます。
アフリカからは奴隷、
アメリカからは砂糖や綿花、
ヨーロッパからは武器や製品が運ばれました。
植民地支配によって、
ヨーロッパの国々は豊かになりました。
しかし、その一方で、
植民地の人々は、自由を奪われ、苦しい生活を強いられました。
この植民地支配の影響は、
今の世界にも残っています。
貧困や格差、争いの原因になっている地域もあります。
今日のまとめです。
植民地とは、強い国が弱い地域を支配したものです。
ヨーロッパの国々が、アメリカ、アフリカ、アジアを植民地にしました。
植民地の人々は、鉱山や農園で厳しい労働をさせられました。
アフリカでは、多くの人々が奴隷として連れていかれました。
教科書 本文
歴史、教科書、108ページ
アジアの香辛料を求めて
古代や中世のヨーロッパの人々にとって、香辛料や絹織物などのアジアの産物は貴重品でした。
なかでも香辛料は、インドや東南アジアが産地でしたが、ヨーロッパに届くまでに西アジアのイスラム商人をはじめ、さまざまな商人の手を経ていたため、値段が高くなりがちでした。
15世紀になると、ヨーロッパの人々は、直接インドや中国と香辛料などの取り引きをするために、当時の科学や技術の進歩を生かして新たな航路を開拓しようと考えるようになりました。
その先頭を切ったのは、15世紀後半にイベリア半島のすべてをイスラム勢力から奪還した、ポルトガルとスペインでした。
これらの国々は、貿易で利益を得ることだけでなく、イスラム勢力に対抗してキリスト教を世界に広めることも目指しました。
ヨーロッパ人の新航路開拓
スペインの援助を受けたコロンブスは、西に進めばイスラム教の国々を通らずインドなどのアジアに着くと考えて出航し、1492年にアメリカ大陸に連なる西インド諸島に到達しました。
その後、ポルトガルのバスコ=ダ=ガマが1498年にアフリカ南端の喜望峰を回ってインドに到達し、アジアへの航路が開かれました。
アメリカ大陸の沿岸の探検が進められた後、スペインが派遣したマゼランの一行はアメリカ大陸の南端を回って西に向かい、1522年、世界一周に初めて成功しました。
これにより、地球が球体であることが証明されました。
ヨーロッパ人による新航路の開拓が続いたこの時代を大航海時代といいます。
アメリカ大陸とアジアやヨーロッパ・アフリカとの間で、各地の動植物や産物、病気などが、互いに急速に広まりました。
アメリカ大陸の文明
ヨーロッパ船がやって来る前のアメリカ大陸では、先住民が気候や地形を利用して、とうもろこしやじゃがいも、豆類などを栽培する農耕文化を古くから営んでいました。
彼らは紀元前1200年ごろから独自の文明を築き、15世紀には、現在のメキシコを中心にアステカ王国が急速に領土を拡大したほか、現在のペルーを中心にインカ帝国が支配を広げました。
これらの文明では太陽が信仰され、優れた石造建築技術を用いて神殿などの建造物がつくられました。
物事の記録には、アステカ王国などでは絵文字が、インカ帝国では縄を使ったキープという方法が用いられました。
馬や鉄器は知られていませんでしたが、このように、アメリカ大陸には独自の文明が存在しました。
世界に乗り出すヨーロッパ諸国
ポルトガルは、インドのゴアやマレー半島のマラッカに拠点を置き、香辛料の重要な産地である東南アジアのマルク諸島にも到達しました。
カリブ海の島々やアメリカ大陸に進出したスペインは、アステカ王国やインカ帝国を征服して広大な植民地を築くと、先住民を銀などの鉱山や、砂糖の原料となるさとうきびなどの大農園で働かせました。
厳しい労働や伝染病により先住民が激減すると、アフリカから奴隷を連れてきて働かせました。
また、16世紀後半には、フィリピンのマニラを拠点にしてアメリカ大陸とアジアを結ぶ貿易にも乗り出すなど、繁栄しました。
しかし、スペイン領のなかで商工業が発達していた地域の人々が独立してオランダを建国し、17世紀にはアジアなど海外との貿易や農園開発も推し進めたことから、ヨーロッパの商工業や金融の中心はオランダに移っていきました。
世界の一体化の始まり
このように新航路が開拓され、ヨーロッパ人が世界各地に進出したことなどから、16世紀には貿易が世界的に盛んになり、各地を結びつけました。
また、アメリカ大陸やカリブ海の島々で、ヨーロッパの人々の都合による開発が進むにつれ、ヨーロッパの人々の貿易の中心も地中海から大西洋に移りました。
ヨーロッパとアメリカの社会は、ヨーロッパに有利なかたちで結びついていきました。
アジアの香辛料を求めて
古代や中世のヨーロッパの人々にとって、香辛料や絹織物などのアジアの産物は貴重品でした。
なかでも香辛料は、インドや東南アジアが産地でしたが、ヨーロッパに届くまでに西アジアのイスラム商人をはじめ、さまざまな商人の手を経ていたため、値段が高くなりがちでした。
15世紀になると、ヨーロッパの人々は、直接インドや中国と香辛料などの取り引きをするために、当時の科学や技術の進歩を生かして新たな航路を開拓しようと考えるようになりました。
その先頭を切ったのは、15世紀後半にイベリア半島のすべてをイスラム勢力から奪還した、ポルトガルとスペインでした。
これらの国々は、貿易で利益を得ることだけでなく、イスラム勢力に対抗してキリスト教を世界に広めることも目指しました。
ヨーロッパ人の新航路開拓
スペインの援助を受けたコロンブスは、西に進めばイスラム教の国々を通らずインドなどのアジアに着くと考えて出航し、1492年にアメリカ大陸に連なる西インド諸島に到達しました。
その後、ポルトガルのバスコ=ダ=ガマが1498年にアフリカ南端の喜望峰を回ってインドに到達し、アジアへの航路が開かれました。
アメリカ大陸の沿岸の探検が進められた後、スペインが派遣したマゼランの一行はアメリカ大陸の南端を回って西に向かい、1522年、世界一周に初めて成功しました。
これにより、地球が球体であることが証明されました。
ヨーロッパ人による新航路の開拓が続いたこの時代を大航海時代といいます。
アメリカ大陸とアジアやヨーロッパ・アフリカとの間で、各地の動植物や産物、病気などが、互いに急速に広まりました。
アメリカ大陸の文明
ヨーロッパ船がやって来る前のアメリカ大陸では、先住民が気候や地形を利用して、とうもろこしやじゃがいも、豆類などを栽培する農耕文化を古くから営んでいました。
彼らは紀元前1200年ごろから独自の文明を築き、15世紀には、現在のメキシコを中心にアステカ王国が急速に領土を拡大したほか、現在のペルーを中心にインカ帝国が支配を広げました。
これらの文明では太陽が信仰され、優れた石造建築技術を用いて神殿などの建造物がつくられました。
物事の記録には、アステカ王国などでは絵文字が、インカ帝国では縄を使ったキープという方法が用いられました。
馬や鉄器は知られていませんでしたが、このように、アメリカ大陸には独自の文明が存在しました。
世界に乗り出すヨーロッパ諸国
ポルトガルは、インドのゴアやマレー半島のマラッカに拠点を置き、香辛料の重要な産地である東南アジアのマルク諸島にも到達しました。
カリブ海の島々やアメリカ大陸に進出したスペインは、アステカ王国やインカ帝国を征服して広大な植民地を築くと、先住民を銀などの鉱山や、砂糖の原料となるさとうきびなどの大農園で働かせました。
厳しい労働や伝染病により先住民が激減すると、アフリカから奴隷を連れてきて働かせました。
また、16世紀後半には、フィリピンのマニラを拠点にしてアメリカ大陸とアジアを結ぶ貿易にも乗り出すなど、繁栄しました。
しかし、スペイン領のなかで商工業が発達していた地域の人々が独立してオランダを建国し、17世紀にはアジアなど海外との貿易や農園開発も推し進めたことから、ヨーロッパの商工業や金融の中心はオランダに移っていきました。
世界の一体化の始まり
このように新航路が開拓され、ヨーロッパ人が世界各地に進出したことなどから、16世紀には貿易が世界的に盛んになり、各地を結びつけました。
また、アメリカ大陸やカリブ海の島々で、ヨーロッパの人々の都合による開発が進むにつれ、ヨーロッパの人々の貿易の中心も地中海から大西洋に移りました。
ヨーロッパとアメリカの社会は、ヨーロッパに有利なかたちで結びついていきました。
