教科書


授業
では、今日は教科書の本文を中心に、「一天下泰平の世の中」について学んでいきます。
この時間のいちばん大切な問いは、学習課題にもあるように、「江戸時代の身分制とは、どのようなしくみなのだろうか。」ということです。
ただ言葉を覚えるだけでなく、本文、図、グラフ、解説文をつなげながら、江戸時代の社会のしくみをしっかり理解していきましょう。
そして最後には、「確認しよう」「説明しよう」で、本文をもとに自分の言葉で答えられるところまで進めます。
まず、ページの上の大きな題名を見てください。
「一天下泰平の世の中」とあります。
これは、戦国時代のように大きな戦乱が続く社会ではなく、全国がほぼ統一され、平和が続く時代になったことを表しています。
この平和な時代だからこそ、産業や経済が発達していきました。
ページ上の問いにも、「なぜ江戸時代に産業や経済が発達したのだろうか。」とあります。
つまり今日は、平和な時代の社会のしくみを学ぶことで、なぜ経済が発達したのかも見えてくるのです。
まず右上の円グラフを見てください。
江戸時代の身分別人口構成が示されています。
図を見ると、百姓が全体の大部分を占めていて、武士は少ないことがわかります。
ここで大切なのは、人数が少ない武士が、どうして支配する側でいられたのかという点です。
この疑問は、本文を読むと解けてきます。
つまり、江戸時代は人数の多さで力が決まるのではなく、身分制という社会のしくみによって支配が成り立っていたのです。
では本文の最初の大事なところを見ていきます。
本文には、「社会の安定を目指した幕府は、豊臣秀吉のときに行われた兵農分離をさらに進め、人々の住む場所を分けるなどして、18世紀までに、武士と百姓・町人の身分を区別するしくみを固めていきました。」とあります。
ここはとても重要です。
江戸時代の身分制は、自然にできたものではなく、幕府が社会を安定させるためにつくり、固めていったものなのです。
兵農分離とは、武士と農民の立場を分けることです。
そして、住む場所まで分けることで、それぞれの身分の役割をはっきりさせました。
武士は支配する側、百姓は年貢を納めて農業を支える側、町人は商業や手工業を支える側というように、社会の役割が整理されていったのです。
さらに本文には、「この過程で、百姓や町人に組み入れられなかった人々の一部は、差別されることになりました。」とあります。
ここも必ず押さえたいところです。
江戸時代の身分制は、社会を安定させるはたらきをもちましたが、その一方で、差別を生み出すしくみでもありました。
つまり、江戸時代の社会は、平和で安定していた面だけでなく、不平等や差別の面もあったということです。
次に、武士について本文を見ます。
「この身分制の下で、政治を行う支配者の身分とされた武士は、主君に仕え、軍事や行政に関わる義務を負いました。」とあります。
ここから、武士はただえらい身分だったのではなく、政治や軍事を担当する役割を与えられていたことがわかります。
つまり、支配する立場であるかわりに、社会を治める責任も負っていたのです。
一方で、武士には特権もありました。
本文には、「名字を名乗ることや、刀を差すこと(帯刀)などの特権をもちました。」とあります。
名字や帯刀は、武士であることをはっきり示すしるしです。
つまり江戸時代では、見た目や呼ばれ方からも身分の違いがわかるようになっていたのです。
さらに、「武士は幕府や藩の役職に就き、石高に応じて、幕府や藩から領地や米が支給されました。」とも書かれています。
ここも大切です。
武士は自分で農業や商売をして生活するのではなく、年貢として集められた米などによって生活していました。
つまり、百姓が納めた年貢が武士の生活を支えていたのです。
ここで、ページ上の年貢米を納める絵を見てください。
百姓が俵から米を出し、升で量り直しています。
蔵の前には武士がいて、不正がないか確かめています。
この図からわかるのは、年貢がとても重要であり、厳しく管理されていたということです。
本文で武士の生活を年貢が支えたとあることと、この絵はしっかりつながっています。
つまり、百姓の生産と年貢のしくみが、江戸社会全体を支えていたのです。
次に百姓について見ていきます。
本文には、「全人口の80%以上を占めたのは百姓で、大部分は村に住み農業を営む農民であり、自給自足に近い生活をしていました。」とあります。
ここから、江戸時代の社会の土台は百姓だったとわかります。
食べ物をつくる人がいなければ、社会は成り立ちません。
しかも人口の大部分が百姓だったのですから、百姓の生活や村のしくみを理解することが、江戸時代を理解することにつながります。
さらに百姓の中にも違いがありました。
「農地をもつ本百姓と、農地をもたない水呑百姓などに分かれていました。」とあります。
つまり、百姓といってもみんな同じではありません。
土地をもち、ある程度安定した生活ができる人もいれば、土地をもたず苦しい生活をする人もいました。
江戸時代の社会は、身分の違いだけでなく、同じ身分の中にも差があったのです。
また、村の中には自治のしくみがありました。
本文には、「村の有力者は、名主(庄屋)・組頭・百姓代などの役目に就き、村の自治にあたりました。」とあります。
ここでいう自治とは、村のことを村の中でまとめることです。
年貢をきちんと納めることや、村の秩序を保つことなどを、村の有力者が中心となって行っていたのです。
つまり幕府や藩は、村全体を通して農民を支配していたといえます。
次に年貢です。
本文には、「農民に課せられた主な税は、収穫した米の40〜50%の年貢で、村が責任をもって納めました。」とあります。
収穫した米の半分近くを納めるのですから、百姓にとって年貢はとても重い負担です。
しかも、一人ひとりではなく、村が責任を負う形でした。
だから村の中で協力し合う必要もあれば、互いに見張るような関係も生まれました。
次に、続きの本文を見ます。
「幕府や藩は、安定して年貢を徴収できるように、村を通して農民に細かい指示を出したり、土地の売買を制限したりしました。」とあります。
つまり幕府や藩が一番大切にしたのは、安定して年貢を集めることだったのです。
年貢が集まらなければ、武士の生活も政治も成り立ちません。
だから土地の売買まで制限して、百姓が農業を続けられるようにしながら、同時に支配もしっかり行ったのです。
さらに、「五人組をつくり、互いに監視させて犯罪を防止したり、年貢の納入に連帯責任をとらせたりしました。」とあります。
五人組は、五戸前後を一つのまとまりにして、互いに責任を負わせる制度です。
これによって、幕府や藩は細かいところまで農民を統制することができました。
つまり、江戸時代の社会の安定は、ただ平和だから成り立っていたのではなく、こうした細かな統制によって支えられていたのです。
また本文には、「百姓は、藩などからの指示を理解したり、年貢などの計算や記録をしたりする必要性から『読み・書き・そろばん』も身につけていきました。」とあります。
ここもおもしろいところです。
支配のための制度が、結果として百姓の実用的な学びにもつながったのです。
つまり、社会が安定し、年貢や記録のしくみが整う中で、人々の知識や技能も高まっていったと考えられます。
これは、後の産業や経済の発達にもつながる大事な点です。
次に町人です。
本文には、「町人の身分は、商人と職人からなり、主に城下町に住みました。」とあります。
町人は、ものを売ったり、道具や品物をつくったりして、町の経済を支える存在でした。
百姓が農業で社会を支えたのに対して、町人は商業や手工業で社会を支えたのです。
さらに、「町人は、町内に土地や家をもつ一部の地主・家持と、それらをもたない多くの地借・店借などに分かれていました。」とあります。
ここから、町人の中にも豊かな人とそうでない人がいたことがわかります。
つまり、身分が同じでも、経済的な差があったのです。
そして、「地主・家持から選ばれた町役人が、町奉行の監督の下で町の自治を行いました。」とあります。
村に名主たちがいたように、町にも町役人がいて自治を行っていました。
こうして江戸時代は、村も町も、それぞれの集団の中でまとめ役を置き、幕府や藩の支配が行き届くようにしていたのです。
次に、差別された人々についてしっかり確認します。
教科書の緑色の囲みには、「近世の社会にも、中世と同じように、天変地異・死・犯罪など人間が計り知れないことを『けがれ』としておそれる傾向があり、それに関わった人々が差別されることがありました。」とあります。
ただし、そのすぐあとで、「この差別には正当な理由がなく、支配者に都合よく利用された不当なものであるといえます。」とも書かれています。
ここはとても大切です。
昔は差別があった、で終わってはいけません。
教科書は、その差別に正当な理由はなかったとはっきり書いています。
つまり、差別はまちがったものであり、社会を支配しやすくするために利用された面があったのです。
さらに本文には、「えたとよばれた人々は、死牛馬の取り扱いや皮革の製造、草履・雪駄づくりなどの履物づくりのほか、犯罪者の捕縛や行刑役などに従事しました。ひにんとよばれた人々は、町や村の警備・芸能などに従事しました。」とあります。
ここで重要なのは、差別された人々が、社会に必要な仕事を担っていたということです。
決して社会に不要な人々だったのではありません。
むしろ、人々の生活や社会の秩序を支える大切な役割を果たしていました。
図の「雪駄づくり」にも注目してください。
説明には、人々の生活に欠かせない雪駄も、差別された人々によってつくられ、竹の皮と牛や馬の革が使われたため水に強く、重宝されたとあります。
つまり、図や写真を見ると、差別された人々の仕事が実際に生活を支えていたことが具体的によくわかります。
本文と資料をつなげると、社会に必要な仕事をしていたのに差別されたという矛盾が、はっきり見えてきます。
次に、「文治政治への転換」です。
本文には、「17世紀後半になると、国内では幕藩体制が確立し、外国との関係も安定してきました。そこで5代将軍徳川綱吉は、武力ではなく学問や礼節を重んじる政治(文治政治)への転換を明確にしました。」とあります。
これは、戦うことが中心の時代から、秩序や学問を重んじる時代へ変わっていったことを意味します。
平和な時代に入ったからこそ、武力一辺倒ではなく、社会のルールや道徳を大切にする政治が必要になったのです。
その中で重視されたのが朱子学です。
本文には、「綱吉は学問を奨励し、特に儒学のなかでも、主君と家臣の主従関係や父子の上下関係を大切にする朱子学を重視して、文治政治の基本となる身分制の維持を目指しました。」とあります。
ここは確認問題にもつながる最重要部分です。
朱子学は、人と人との上下関係を大切にする考え方です。
だから幕府にとっては、武士が上、百姓や町人がその下という身分制を正当化し、維持するのに都合がよかったのです。
さらに本文には、「朱子学の考え方は、大名と家臣の関係のほか、商人の主人と奉公人、職人の親方と弟子の関係にも広がりました。」とあります。
ここから、朱子学は政治だけでなく、社会全体の人間関係に広がっていたことがわかります。
つまり、江戸時代の社会は、上下関係を重んじる考え方によって支えられていたのです。
続いて、「庶民の家でも、男の家長を主人とする『家制度』ができ上がり、財産や家業などを家長から長男一人が受け継ぐようになりました。」とあります。
これは、家の中にも上下関係や秩序がはっきりあったことを表しています。
社会だけでなく、家庭の中にも江戸時代の価値観が広がっていたのです。
さらに、「男尊女卑の風潮が社会に根づき、特に女性は、小さいときは親に従い、結婚して夫に従い、老いて子(長男)に従うことが求められました。」とあります。
ここから、女性が不自由な立場に置かれていたことがわかります。
ただし、右下の「歴史プラス 女性と学問」には、女性は『女大学』などで儒教思想や読み書きを学び、自分の考えを表現する素養を身につけ、学んだ知識を用いて武士の家へ奉公に出て経済的に自立する女性もいたとあります。
つまり、女性の立場には制約があった一方で、学問を通して力をつけ、自立する人もいたことがわかります。
本文と解説文を合わせて読むと、江戸時代の女性の生き方を一面的ではなく、多面的に見ることができます。
ここで、学習課題にしっかり答えます。
「江戸時代の身分制とは、どのようなしくみなのだろうか。」という問いに対しては、江戸時代の身分制とは、幕府が社会の安定を目指して、武士・百姓・町人を区別し、それぞれの住む場所や役割を分け、武士を支配者の身分とし、百姓には年貢を負担させ、町人には商業や手工業を担わせた社会のしくみである、と答えることができます。
また、その身分制の中で、百姓や町人に組み入れられなかった一部の人々が差別されたことも、あわせて押さえる必要があります。
次に、「確認しよう」に取り組みます。
問題は、「朱子学の考え方について説明している箇所を、本文から書き出そう。」です。
答えになる中心部分は、本文の「主君と家臣の主従関係や父子の上下関係を大切にする朱子学」です。
ただ、書き出し問題としてよりていねいに書くなら、「綱吉は学問を奨励し、特に儒学のなかでも、主君と家臣の主従関係や父子の上下関係を大切にする朱子学を重視して、文治政治の基本となる身分制の維持を目指しました。」の部分を書けばよいです。
この問題では、「朱子学=上下関係を大切にする考え方」とつかめているかが重要です。
では、その意味も確認します。
なぜ幕府が朱子学を重視したのでしょうか。
それは、上下関係を重んじる考え方が、身分制を安定させるのに役立ったからです。
武士が上に立ち、百姓や町人がそれぞれの立場を守るという社会を維持するために、朱子学は都合のよい考え方だったのです。
次に、「説明しよう」に進みます。
問題は、「社会の安定化を図るため、江戸時代初めにどのような政策が行われたのか、説明しよう。」です。
これは、本文の前半を自分でまとめて説明する問題です。
答え方のポイントは三つあります。
一つ目は、兵農分離をさらに進めたことです。
二つ目は、人々の住む場所を分け、武士と百姓・町人の身分を区別するしくみを固めたことです。
三つ目は、村を通して農民を支配し、五人組や年貢の連帯責任などで統制したことです。
これを文章でまとめると、答えはこうなります。
社会の安定化を図るため、幕府は豊臣秀吉のときに行われた兵農分離をさらに進め、人々の住む場所を分けるなどして武士と百姓・町人の身分を区別するしくみを固めた。
また、村を通して農民に細かい指示を出し、土地の売買を制限し、五人組をつくらせて、年貢の徴収と農民の統制を進めた。
このように答えると、本文の内容をしっかりまとめた説明になります。
ここで最後に、今日の学習全体をまとめます。
江戸時代の身分制は、幕府が社会の安定を目指してつくり上げた社会のしくみでした。
武士は政治や軍事を担う支配者として特権をもち、百姓は年貢を納めて社会を支え、町人は商業や手工業で町を支えました。
その一方で、差別された人々もいて、社会に必要な仕事を担いながら不当な差別を受けていました。
また、徳川綱吉の時代には、朱子学を重視する文治政治が進み、上下関係を大切にする考え方が社会全体に広がりました。
そして、最初の問いにも戻れます。
なぜ江戸時代に産業や経済が発達したのか。
それは、幕府が身分制や村・町の自治、年貢のしくみなどによって社会を安定させ、平和な状態が長く続いたからです。
平和で安定した社会の中で、人々は農業、商業、手工業を発展させ、学問や読み書きも広がっていったのです。
つまり、江戸時代の経済の発達は、こうした社会のしくみの上に成り立っていたのです。
今日の授業では、本文を読みながら、図、グラフ、解説文をつなげて考えることで、江戸時代の身分制がただの暗記事項ではなく、社会全体を動かす大きなしくみだったことが見えてきました。
この理解ができれば、「確認しよう」「説明しよう」にも自信をもって答えられます。
次は、本文の大事な一文を自分で書き出したり、説明を短くまとめたりして、確実に自分の力にしていきましょう。
この時間のいちばん大切な問いは、学習課題にもあるように、「江戸時代の身分制とは、どのようなしくみなのだろうか。」ということです。
ただ言葉を覚えるだけでなく、本文、図、グラフ、解説文をつなげながら、江戸時代の社会のしくみをしっかり理解していきましょう。
そして最後には、「確認しよう」「説明しよう」で、本文をもとに自分の言葉で答えられるところまで進めます。
まず、ページの上の大きな題名を見てください。
「一天下泰平の世の中」とあります。
これは、戦国時代のように大きな戦乱が続く社会ではなく、全国がほぼ統一され、平和が続く時代になったことを表しています。
この平和な時代だからこそ、産業や経済が発達していきました。
ページ上の問いにも、「なぜ江戸時代に産業や経済が発達したのだろうか。」とあります。
つまり今日は、平和な時代の社会のしくみを学ぶことで、なぜ経済が発達したのかも見えてくるのです。
まず右上の円グラフを見てください。
江戸時代の身分別人口構成が示されています。
図を見ると、百姓が全体の大部分を占めていて、武士は少ないことがわかります。
ここで大切なのは、人数が少ない武士が、どうして支配する側でいられたのかという点です。
この疑問は、本文を読むと解けてきます。
つまり、江戸時代は人数の多さで力が決まるのではなく、身分制という社会のしくみによって支配が成り立っていたのです。
では本文の最初の大事なところを見ていきます。
本文には、「社会の安定を目指した幕府は、豊臣秀吉のときに行われた兵農分離をさらに進め、人々の住む場所を分けるなどして、18世紀までに、武士と百姓・町人の身分を区別するしくみを固めていきました。」とあります。
ここはとても重要です。
江戸時代の身分制は、自然にできたものではなく、幕府が社会を安定させるためにつくり、固めていったものなのです。
兵農分離とは、武士と農民の立場を分けることです。
そして、住む場所まで分けることで、それぞれの身分の役割をはっきりさせました。
武士は支配する側、百姓は年貢を納めて農業を支える側、町人は商業や手工業を支える側というように、社会の役割が整理されていったのです。
さらに本文には、「この過程で、百姓や町人に組み入れられなかった人々の一部は、差別されることになりました。」とあります。
ここも必ず押さえたいところです。
江戸時代の身分制は、社会を安定させるはたらきをもちましたが、その一方で、差別を生み出すしくみでもありました。
つまり、江戸時代の社会は、平和で安定していた面だけでなく、不平等や差別の面もあったということです。
次に、武士について本文を見ます。
「この身分制の下で、政治を行う支配者の身分とされた武士は、主君に仕え、軍事や行政に関わる義務を負いました。」とあります。
ここから、武士はただえらい身分だったのではなく、政治や軍事を担当する役割を与えられていたことがわかります。
つまり、支配する立場であるかわりに、社会を治める責任も負っていたのです。
一方で、武士には特権もありました。
本文には、「名字を名乗ることや、刀を差すこと(帯刀)などの特権をもちました。」とあります。
名字や帯刀は、武士であることをはっきり示すしるしです。
つまり江戸時代では、見た目や呼ばれ方からも身分の違いがわかるようになっていたのです。
さらに、「武士は幕府や藩の役職に就き、石高に応じて、幕府や藩から領地や米が支給されました。」とも書かれています。
ここも大切です。
武士は自分で農業や商売をして生活するのではなく、年貢として集められた米などによって生活していました。
つまり、百姓が納めた年貢が武士の生活を支えていたのです。
ここで、ページ上の年貢米を納める絵を見てください。
百姓が俵から米を出し、升で量り直しています。
蔵の前には武士がいて、不正がないか確かめています。
この図からわかるのは、年貢がとても重要であり、厳しく管理されていたということです。
本文で武士の生活を年貢が支えたとあることと、この絵はしっかりつながっています。
つまり、百姓の生産と年貢のしくみが、江戸社会全体を支えていたのです。
次に百姓について見ていきます。
本文には、「全人口の80%以上を占めたのは百姓で、大部分は村に住み農業を営む農民であり、自給自足に近い生活をしていました。」とあります。
ここから、江戸時代の社会の土台は百姓だったとわかります。
食べ物をつくる人がいなければ、社会は成り立ちません。
しかも人口の大部分が百姓だったのですから、百姓の生活や村のしくみを理解することが、江戸時代を理解することにつながります。
さらに百姓の中にも違いがありました。
「農地をもつ本百姓と、農地をもたない水呑百姓などに分かれていました。」とあります。
つまり、百姓といってもみんな同じではありません。
土地をもち、ある程度安定した生活ができる人もいれば、土地をもたず苦しい生活をする人もいました。
江戸時代の社会は、身分の違いだけでなく、同じ身分の中にも差があったのです。
また、村の中には自治のしくみがありました。
本文には、「村の有力者は、名主(庄屋)・組頭・百姓代などの役目に就き、村の自治にあたりました。」とあります。
ここでいう自治とは、村のことを村の中でまとめることです。
年貢をきちんと納めることや、村の秩序を保つことなどを、村の有力者が中心となって行っていたのです。
つまり幕府や藩は、村全体を通して農民を支配していたといえます。
次に年貢です。
本文には、「農民に課せられた主な税は、収穫した米の40〜50%の年貢で、村が責任をもって納めました。」とあります。
収穫した米の半分近くを納めるのですから、百姓にとって年貢はとても重い負担です。
しかも、一人ひとりではなく、村が責任を負う形でした。
だから村の中で協力し合う必要もあれば、互いに見張るような関係も生まれました。
次に、続きの本文を見ます。
「幕府や藩は、安定して年貢を徴収できるように、村を通して農民に細かい指示を出したり、土地の売買を制限したりしました。」とあります。
つまり幕府や藩が一番大切にしたのは、安定して年貢を集めることだったのです。
年貢が集まらなければ、武士の生活も政治も成り立ちません。
だから土地の売買まで制限して、百姓が農業を続けられるようにしながら、同時に支配もしっかり行ったのです。
さらに、「五人組をつくり、互いに監視させて犯罪を防止したり、年貢の納入に連帯責任をとらせたりしました。」とあります。
五人組は、五戸前後を一つのまとまりにして、互いに責任を負わせる制度です。
これによって、幕府や藩は細かいところまで農民を統制することができました。
つまり、江戸時代の社会の安定は、ただ平和だから成り立っていたのではなく、こうした細かな統制によって支えられていたのです。
また本文には、「百姓は、藩などからの指示を理解したり、年貢などの計算や記録をしたりする必要性から『読み・書き・そろばん』も身につけていきました。」とあります。
ここもおもしろいところです。
支配のための制度が、結果として百姓の実用的な学びにもつながったのです。
つまり、社会が安定し、年貢や記録のしくみが整う中で、人々の知識や技能も高まっていったと考えられます。
これは、後の産業や経済の発達にもつながる大事な点です。
次に町人です。
本文には、「町人の身分は、商人と職人からなり、主に城下町に住みました。」とあります。
町人は、ものを売ったり、道具や品物をつくったりして、町の経済を支える存在でした。
百姓が農業で社会を支えたのに対して、町人は商業や手工業で社会を支えたのです。
さらに、「町人は、町内に土地や家をもつ一部の地主・家持と、それらをもたない多くの地借・店借などに分かれていました。」とあります。
ここから、町人の中にも豊かな人とそうでない人がいたことがわかります。
つまり、身分が同じでも、経済的な差があったのです。
そして、「地主・家持から選ばれた町役人が、町奉行の監督の下で町の自治を行いました。」とあります。
村に名主たちがいたように、町にも町役人がいて自治を行っていました。
こうして江戸時代は、村も町も、それぞれの集団の中でまとめ役を置き、幕府や藩の支配が行き届くようにしていたのです。
次に、差別された人々についてしっかり確認します。
教科書の緑色の囲みには、「近世の社会にも、中世と同じように、天変地異・死・犯罪など人間が計り知れないことを『けがれ』としておそれる傾向があり、それに関わった人々が差別されることがありました。」とあります。
ただし、そのすぐあとで、「この差別には正当な理由がなく、支配者に都合よく利用された不当なものであるといえます。」とも書かれています。
ここはとても大切です。
昔は差別があった、で終わってはいけません。
教科書は、その差別に正当な理由はなかったとはっきり書いています。
つまり、差別はまちがったものであり、社会を支配しやすくするために利用された面があったのです。
さらに本文には、「えたとよばれた人々は、死牛馬の取り扱いや皮革の製造、草履・雪駄づくりなどの履物づくりのほか、犯罪者の捕縛や行刑役などに従事しました。ひにんとよばれた人々は、町や村の警備・芸能などに従事しました。」とあります。
ここで重要なのは、差別された人々が、社会に必要な仕事を担っていたということです。
決して社会に不要な人々だったのではありません。
むしろ、人々の生活や社会の秩序を支える大切な役割を果たしていました。
図の「雪駄づくり」にも注目してください。
説明には、人々の生活に欠かせない雪駄も、差別された人々によってつくられ、竹の皮と牛や馬の革が使われたため水に強く、重宝されたとあります。
つまり、図や写真を見ると、差別された人々の仕事が実際に生活を支えていたことが具体的によくわかります。
本文と資料をつなげると、社会に必要な仕事をしていたのに差別されたという矛盾が、はっきり見えてきます。
次に、「文治政治への転換」です。
本文には、「17世紀後半になると、国内では幕藩体制が確立し、外国との関係も安定してきました。そこで5代将軍徳川綱吉は、武力ではなく学問や礼節を重んじる政治(文治政治)への転換を明確にしました。」とあります。
これは、戦うことが中心の時代から、秩序や学問を重んじる時代へ変わっていったことを意味します。
平和な時代に入ったからこそ、武力一辺倒ではなく、社会のルールや道徳を大切にする政治が必要になったのです。
その中で重視されたのが朱子学です。
本文には、「綱吉は学問を奨励し、特に儒学のなかでも、主君と家臣の主従関係や父子の上下関係を大切にする朱子学を重視して、文治政治の基本となる身分制の維持を目指しました。」とあります。
ここは確認問題にもつながる最重要部分です。
朱子学は、人と人との上下関係を大切にする考え方です。
だから幕府にとっては、武士が上、百姓や町人がその下という身分制を正当化し、維持するのに都合がよかったのです。
さらに本文には、「朱子学の考え方は、大名と家臣の関係のほか、商人の主人と奉公人、職人の親方と弟子の関係にも広がりました。」とあります。
ここから、朱子学は政治だけでなく、社会全体の人間関係に広がっていたことがわかります。
つまり、江戸時代の社会は、上下関係を重んじる考え方によって支えられていたのです。
続いて、「庶民の家でも、男の家長を主人とする『家制度』ができ上がり、財産や家業などを家長から長男一人が受け継ぐようになりました。」とあります。
これは、家の中にも上下関係や秩序がはっきりあったことを表しています。
社会だけでなく、家庭の中にも江戸時代の価値観が広がっていたのです。
さらに、「男尊女卑の風潮が社会に根づき、特に女性は、小さいときは親に従い、結婚して夫に従い、老いて子(長男)に従うことが求められました。」とあります。
ここから、女性が不自由な立場に置かれていたことがわかります。
ただし、右下の「歴史プラス 女性と学問」には、女性は『女大学』などで儒教思想や読み書きを学び、自分の考えを表現する素養を身につけ、学んだ知識を用いて武士の家へ奉公に出て経済的に自立する女性もいたとあります。
つまり、女性の立場には制約があった一方で、学問を通して力をつけ、自立する人もいたことがわかります。
本文と解説文を合わせて読むと、江戸時代の女性の生き方を一面的ではなく、多面的に見ることができます。
ここで、学習課題にしっかり答えます。
「江戸時代の身分制とは、どのようなしくみなのだろうか。」という問いに対しては、江戸時代の身分制とは、幕府が社会の安定を目指して、武士・百姓・町人を区別し、それぞれの住む場所や役割を分け、武士を支配者の身分とし、百姓には年貢を負担させ、町人には商業や手工業を担わせた社会のしくみである、と答えることができます。
また、その身分制の中で、百姓や町人に組み入れられなかった一部の人々が差別されたことも、あわせて押さえる必要があります。
次に、「確認しよう」に取り組みます。
問題は、「朱子学の考え方について説明している箇所を、本文から書き出そう。」です。
答えになる中心部分は、本文の「主君と家臣の主従関係や父子の上下関係を大切にする朱子学」です。
ただ、書き出し問題としてよりていねいに書くなら、「綱吉は学問を奨励し、特に儒学のなかでも、主君と家臣の主従関係や父子の上下関係を大切にする朱子学を重視して、文治政治の基本となる身分制の維持を目指しました。」の部分を書けばよいです。
この問題では、「朱子学=上下関係を大切にする考え方」とつかめているかが重要です。
では、その意味も確認します。
なぜ幕府が朱子学を重視したのでしょうか。
それは、上下関係を重んじる考え方が、身分制を安定させるのに役立ったからです。
武士が上に立ち、百姓や町人がそれぞれの立場を守るという社会を維持するために、朱子学は都合のよい考え方だったのです。
次に、「説明しよう」に進みます。
問題は、「社会の安定化を図るため、江戸時代初めにどのような政策が行われたのか、説明しよう。」です。
これは、本文の前半を自分でまとめて説明する問題です。
答え方のポイントは三つあります。
一つ目は、兵農分離をさらに進めたことです。
二つ目は、人々の住む場所を分け、武士と百姓・町人の身分を区別するしくみを固めたことです。
三つ目は、村を通して農民を支配し、五人組や年貢の連帯責任などで統制したことです。
これを文章でまとめると、答えはこうなります。
社会の安定化を図るため、幕府は豊臣秀吉のときに行われた兵農分離をさらに進め、人々の住む場所を分けるなどして武士と百姓・町人の身分を区別するしくみを固めた。
また、村を通して農民に細かい指示を出し、土地の売買を制限し、五人組をつくらせて、年貢の徴収と農民の統制を進めた。
このように答えると、本文の内容をしっかりまとめた説明になります。
ここで最後に、今日の学習全体をまとめます。
江戸時代の身分制は、幕府が社会の安定を目指してつくり上げた社会のしくみでした。
武士は政治や軍事を担う支配者として特権をもち、百姓は年貢を納めて社会を支え、町人は商業や手工業で町を支えました。
その一方で、差別された人々もいて、社会に必要な仕事を担いながら不当な差別を受けていました。
また、徳川綱吉の時代には、朱子学を重視する文治政治が進み、上下関係を大切にする考え方が社会全体に広がりました。
そして、最初の問いにも戻れます。
なぜ江戸時代に産業や経済が発達したのか。
それは、幕府が身分制や村・町の自治、年貢のしくみなどによって社会を安定させ、平和な状態が長く続いたからです。
平和で安定した社会の中で、人々は農業、商業、手工業を発展させ、学問や読み書きも広がっていったのです。
つまり、江戸時代の経済の発達は、こうした社会のしくみの上に成り立っていたのです。
今日の授業では、本文を読みながら、図、グラフ、解説文をつなげて考えることで、江戸時代の身分制がただの暗記事項ではなく、社会全体を動かす大きなしくみだったことが見えてきました。
この理解ができれば、「確認しよう」「説明しよう」にも自信をもって答えられます。
次は、本文の大事な一文を自分で書き出したり、説明を短くまとめたりして、確実に自分の力にしていきましょう。
教科書 本文
一 天下泰平の世の中
なぜ江戸時代に産業や経済が発達したのだろうか。
身分制の下での暮らし
学習課題
江戸時代の身分制とは、どのようなしくみなのだろうか。
身分制と武士
社会の安定を目指した幕府は、豊臣秀吉のときに行われた兵農分離をさらに進め、人々の住む場所を分けるなどして、18世紀までに、武士と百姓・町人の身分を区別するしくみを固めていきました。
この過程で、百姓や町人に組み入れられなかった人々の一部は、差別されることになりました。
この身分制の下で、政治を行う支配者の身分とされた武士は、主君に仕え、軍事や行政に関わる義務を負いました。
一方で、名字(姓)を名乗ることや、刀を差すこと(帯刀)などの特権をもちました。
武士は幕府や藩の役職に就き、石高に応じて、幕府や藩から領地や米が支給されました。
百姓・町人
全人口の80%以上を占めたのは百姓で、大部分は村に住み農業を営む農民であり、自給自足に近い生活をしていました。
農民は、農地をもつ本百姓と、農地をもたない水呑百姓などに分かれていました。
村の有力者は、名主(庄屋)・組頭・百姓代など村方三役という役目に就き、村の自治にあたりました。
農民に課せられた主な税は、収穫した米の40〜50%の年貢で、村が責任をもって納めました。
年貢は藩や幕府に納められ、武士の生活を支えました。
幕府や藩は、安定して年貢を徴収できるように、村を通して農民に細かい指示を出したり、土地の売買を制限したりしました。
さらに、五人組をつくり、互いに監視させて犯罪を防止したり、年貢の納入に連帯責任をとらせたりしました。
また、百姓は、藩などからの指示を理解したり、年貢などの計算や記録をしたりする必要性から「読み・書き・そろばん」も身につけていきました。
町人の身分は、商人と職人からなり、主に城下町に住みました。
町人は、町内に土地や家をもつ一部の地主・家持と、それらをもたない多くの地借・店借などに分かれていました。
地主・家持から選ばれた町役人が、町奉行の監督の下で町の自治を行いました。
文治政治への転換
17世紀後半になると、国内では幕藩体制が確立し、外国との関係も安定してきました。
そこで5代将軍徳川綱吉は、武力ではなく学問や礼節を重んじる政治(文治政治)への転換を明確にしました。
綱吉は学問を奨励し、特に儒学のなかでも、主君と家臣の主従関係や父子の上下関係を大切にする朱子学を重視して、文治政治の基本となる身分制の維持を目指しました。
朱子学の考え方は、大名と家臣の関係のほか、商人の主人と奉公人、職人の親方と弟子の関係にも広がりました。
庶民の家でも、男の家長を主人とする「家制度」ができ上がり、財産や家業などを家長から長男一人が受け継ぐようになりました。
また、男尊女卑の風潮が社会に根づき、特に女性は、小さいときは親に従い、結婚して夫に従い、老いて子(長男)に従うことが求められました。
差別された人々
近世の社会にも、中世と同じように、天変地異・死・犯罪など人間が計り知れないことを「けがれ」としておそれる傾向があり、それに関わった人々が差別されることがありました。
もっとも、死に関わっていても、医師や僧侶、処刑役に従事した武士などは差別されなかったので、この差別には正当な理由がなく、支配者に都合よく利用された不当なものであるといえます。
差別された人々は、地域によってさまざまな呼び名や役割で存在していました。
えたとよばれた人々は、死牛馬の取り扱いや皮革の製造、皮細工、竹細工、草履・雪駄などの履物づくりのほか、犯罪者の捕縛や行刑役などに従事しました。
ひにんとよばれた人々は、町や村の警備・芸能などに従事しました。
これらの人々は、社会的に必要とされる仕事や役割・文化を担っていたといえます。
なかには、経済的に豊かになる人も現れましたが、江戸時代中期から幕府や藩が出すお触れなどによって、百姓や町人とは別の身分として位置づけられ、服装や髪型を制限されました。
このような政策で、差別はさらに強化されました。
女性と学問
女性は『女大学』などの教科書で儒教思想や読み・書きを修めることで、自分の考えを表現する素養を身につけました。
学んだ知識を用いて武士の家へ奉公に出て、経済的に自立する女性もいました。
なぜ江戸時代に産業や経済が発達したのだろうか。
身分制の下での暮らし
学習課題
江戸時代の身分制とは、どのようなしくみなのだろうか。
身分制と武士
社会の安定を目指した幕府は、豊臣秀吉のときに行われた兵農分離をさらに進め、人々の住む場所を分けるなどして、18世紀までに、武士と百姓・町人の身分を区別するしくみを固めていきました。
この過程で、百姓や町人に組み入れられなかった人々の一部は、差別されることになりました。
この身分制の下で、政治を行う支配者の身分とされた武士は、主君に仕え、軍事や行政に関わる義務を負いました。
一方で、名字(姓)を名乗ることや、刀を差すこと(帯刀)などの特権をもちました。
武士は幕府や藩の役職に就き、石高に応じて、幕府や藩から領地や米が支給されました。
百姓・町人
全人口の80%以上を占めたのは百姓で、大部分は村に住み農業を営む農民であり、自給自足に近い生活をしていました。
農民は、農地をもつ本百姓と、農地をもたない水呑百姓などに分かれていました。
村の有力者は、名主(庄屋)・組頭・百姓代など村方三役という役目に就き、村の自治にあたりました。
農民に課せられた主な税は、収穫した米の40〜50%の年貢で、村が責任をもって納めました。
年貢は藩や幕府に納められ、武士の生活を支えました。
幕府や藩は、安定して年貢を徴収できるように、村を通して農民に細かい指示を出したり、土地の売買を制限したりしました。
さらに、五人組をつくり、互いに監視させて犯罪を防止したり、年貢の納入に連帯責任をとらせたりしました。
また、百姓は、藩などからの指示を理解したり、年貢などの計算や記録をしたりする必要性から「読み・書き・そろばん」も身につけていきました。
町人の身分は、商人と職人からなり、主に城下町に住みました。
町人は、町内に土地や家をもつ一部の地主・家持と、それらをもたない多くの地借・店借などに分かれていました。
地主・家持から選ばれた町役人が、町奉行の監督の下で町の自治を行いました。
文治政治への転換
17世紀後半になると、国内では幕藩体制が確立し、外国との関係も安定してきました。
そこで5代将軍徳川綱吉は、武力ではなく学問や礼節を重んじる政治(文治政治)への転換を明確にしました。
綱吉は学問を奨励し、特に儒学のなかでも、主君と家臣の主従関係や父子の上下関係を大切にする朱子学を重視して、文治政治の基本となる身分制の維持を目指しました。
朱子学の考え方は、大名と家臣の関係のほか、商人の主人と奉公人、職人の親方と弟子の関係にも広がりました。
庶民の家でも、男の家長を主人とする「家制度」ができ上がり、財産や家業などを家長から長男一人が受け継ぐようになりました。
また、男尊女卑の風潮が社会に根づき、特に女性は、小さいときは親に従い、結婚して夫に従い、老いて子(長男)に従うことが求められました。
差別された人々
近世の社会にも、中世と同じように、天変地異・死・犯罪など人間が計り知れないことを「けがれ」としておそれる傾向があり、それに関わった人々が差別されることがありました。
もっとも、死に関わっていても、医師や僧侶、処刑役に従事した武士などは差別されなかったので、この差別には正当な理由がなく、支配者に都合よく利用された不当なものであるといえます。
差別された人々は、地域によってさまざまな呼び名や役割で存在していました。
えたとよばれた人々は、死牛馬の取り扱いや皮革の製造、皮細工、竹細工、草履・雪駄などの履物づくりのほか、犯罪者の捕縛や行刑役などに従事しました。
ひにんとよばれた人々は、町や村の警備・芸能などに従事しました。
これらの人々は、社会的に必要とされる仕事や役割・文化を担っていたといえます。
なかには、経済的に豊かになる人も現れましたが、江戸時代中期から幕府や藩が出すお触れなどによって、百姓や町人とは別の身分として位置づけられ、服装や髪型を制限されました。
このような政策で、差別はさらに強化されました。
女性と学問
女性は『女大学』などの教科書で儒教思想や読み・書きを修めることで、自分の考えを表現する素養を身につけました。
学んだ知識を用いて武士の家へ奉公に出て、経済的に自立する女性もいました。
授業 / 身分制と武士
今回は、身分制と武士について考えていきます。
まず、大きな歴史の流れの中で確認します。
戦国時代には各地で戦いが続き、社会は不安定な状態にありました。
しかし、徳川幕府が成立すると、天下泰平の世の中、つまり戦いのない安定した社会を目指すようになります。
そのために、人々の身分や役割をはっきり分けて、支配しやすいしくみが整えられました。
では、本文を見ていきます。
本文には、幕府は社会の安定を目指して、豊臣秀吉のときに行われた兵農分離をさらに進めたとあります。
兵農分離とは、武士と農民を分ける政策です。
これをさらに進めることで、武士は武士、農民は農民として生活するように固定されました。
さらに本文には、人々の住む場所を分けるなどして、18世紀までに武士と百姓・町人の身分を区別するしくみを固めたとあります。
これは、身分ごとに生活の場所や役割を分けることで、社会の秩序を保とうとしたものです。
しかし本文には、その過程で百姓や町人に組み入れられなかった人々の一部が差別されたとも書かれています。
さらに次のページの説明から、その人々は特定の仕事を理由に差別されたことがわかります。
この差別は、社会の中でつくられたものであり、正当な理由があったわけではありません。
では、武士について見ていきます。
本文には、武士は政治を行う支配者の身分とされ、主君に仕え、軍事や行政に関わる義務を負ったとあります。
つまり武士は、戦うだけでなく、政治を行う役割も担っていました。
一方で、武士には特権もありました。
本文には、名字を名乗ることや、刀を差すこと(帯刀)が許されていたとあります。
帯刀とは、武士だけが刀を身につけることができるという特別な権利です。
さらに本文には、武士は幕府や藩の役職に就き、石高に応じて領地や米が支給されたとあります。
石高とは、その土地からどれだけ米がとれるかを表す基準であり、武士の収入のもとになっていました。
ここで資料に注目します。
136ページの資料には、農民が年貢として米を納め、それを武士が確認している様子が描かれています。
この資料から、武士が農民から集めた年貢によって生活していたことが読み取れます。
つまり、武士は支配者として政治を行いながらも、農民の生産に支えられて生活していたのです。
ここまでの内容をまとめます。
・幕府は、武士と百姓・町人の身分を分け、住む場所も分けることで、社会のしくみを整えました。
・身分は原則として変えることができず、固定されたものでした。
・武士は政治や軍事を担う支配者として、主君に仕える義務を負っていました。
・武士には名字を名乗ることや刀を差すことなどの特権があります。刀を差すことを帯刀といいます。
・武士は石高を基準に領地や米を与えられ、農民の納める年貢によって生活していました。
・身分制の中では、一部の人々が差別されるという問題も生まれました。
このように、身分制は社会の秩序を保つために作られたしくみでしたが、その一方で不平等や差別も生み出したことを理解しておくことが大切です。
まず、大きな歴史の流れの中で確認します。
戦国時代には各地で戦いが続き、社会は不安定な状態にありました。
しかし、徳川幕府が成立すると、天下泰平の世の中、つまり戦いのない安定した社会を目指すようになります。
そのために、人々の身分や役割をはっきり分けて、支配しやすいしくみが整えられました。
では、本文を見ていきます。
本文には、幕府は社会の安定を目指して、豊臣秀吉のときに行われた兵農分離をさらに進めたとあります。
兵農分離とは、武士と農民を分ける政策です。
これをさらに進めることで、武士は武士、農民は農民として生活するように固定されました。
さらに本文には、人々の住む場所を分けるなどして、18世紀までに武士と百姓・町人の身分を区別するしくみを固めたとあります。
これは、身分ごとに生活の場所や役割を分けることで、社会の秩序を保とうとしたものです。
しかし本文には、その過程で百姓や町人に組み入れられなかった人々の一部が差別されたとも書かれています。
さらに次のページの説明から、その人々は特定の仕事を理由に差別されたことがわかります。
この差別は、社会の中でつくられたものであり、正当な理由があったわけではありません。
では、武士について見ていきます。
本文には、武士は政治を行う支配者の身分とされ、主君に仕え、軍事や行政に関わる義務を負ったとあります。
つまり武士は、戦うだけでなく、政治を行う役割も担っていました。
一方で、武士には特権もありました。
本文には、名字を名乗ることや、刀を差すこと(帯刀)が許されていたとあります。
帯刀とは、武士だけが刀を身につけることができるという特別な権利です。
さらに本文には、武士は幕府や藩の役職に就き、石高に応じて領地や米が支給されたとあります。
石高とは、その土地からどれだけ米がとれるかを表す基準であり、武士の収入のもとになっていました。
ここで資料に注目します。
136ページの資料には、農民が年貢として米を納め、それを武士が確認している様子が描かれています。
この資料から、武士が農民から集めた年貢によって生活していたことが読み取れます。
つまり、武士は支配者として政治を行いながらも、農民の生産に支えられて生活していたのです。
ここまでの内容をまとめます。
・幕府は、武士と百姓・町人の身分を分け、住む場所も分けることで、社会のしくみを整えました。
・身分は原則として変えることができず、固定されたものでした。
・武士は政治や軍事を担う支配者として、主君に仕える義務を負っていました。
・武士には名字を名乗ることや刀を差すことなどの特権があります。刀を差すことを帯刀といいます。
・武士は石高を基準に領地や米を与えられ、農民の納める年貢によって生活していました。
・身分制の中では、一部の人々が差別されるという問題も生まれました。
このように、身分制は社会の秩序を保つために作られたしくみでしたが、その一方で不平等や差別も生み出したことを理解しておくことが大切です。