歴史教科書 124ページ 1 幕藩体制の始まり
学習課題
江戸幕府は大名や朝廷を統制するために、どのようなしくみをつくったのだろうか。
江戸時代の幕開け
豊臣秀吉の死後、勢力を伸ばしたのは、関東を領地にしていた徳川家康でした。
1600年に家康は、豊臣氏の支配をそのまま続けようとする石田三成らの大名を、関ヶ原の戦い(岐阜県)で破り、全国支配を強めていきました。
そして、1603年に朝廷から征夷大将軍に任命された家康は、江戸(東京都)に幕府を開きました(江戸幕府)江戸時代の始まりです。
家康は1615年に豊臣氏を滅ぼし(大阪の陣)、徳川氏が約260年間にわたって全国を支配する基礎をつくりました。
江戸幕府のしくみ
幕府が直接支配する直轄地を幕領といい、将軍直属の家来の領地も含めると、江戸時代初めの石高は約400万石で、やがて全国のおよそ4分の1にあたる約700万石に及びました。
また、大阪・京都・奈良・長崎などの主要都市や、全国の主な鉱山も直轄地とし、収入源としました。
さらに、金・銀・銅の貨幣を発行し、貿易も独占しました。
将軍は、直属の家来である旗本・御家人を中心に強大な軍事力をもっていました。
幕府の政治は、将軍が任命した老中が行い、若年寄がそれを補佐し、三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)が職務を分担して行いました。
幕府と藩の関係
将軍から1万石以上の領地を与えられた武士を大名とよび、大名は幕領以外の土地を支配しました。
大名の数は時代によって変動がありますが、江戸時代後半には約270に上りました。
大名には、徳川一門の親藩、初めから徳川氏の家臣であった譜代大名、関ヶ原の戦いのころから徳川氏に従った外様大名の区別があり、幕府の重要な役職には譜代大名や旗本が任命されました。
大名が支配する領域は藩といい、藩では独自の統治が認められました。
3代将軍徳川家光のころには、このような幕府と藩が全国の土地と人々を支配する幕藩体制のしくみが確立しました。
大名や朝廷の統制
幕府は武家諸法度を定め、築城や大名どうしの結婚などに制限を設けました。
法度に違反した大名に対しては、国替や藩の取り潰し(改易)などを行いました。
さらに、家光のころには参勤交代の制度が整えられ、多くの大名は1年おきに江戸と領地を行き来し、その妻や子は江戸の屋敷に住むよう命じられました。
また、幕府は御手伝普請とよばれる、河川や江戸城を整備するなどの土木工事を大名に命じました。
参勤交代や御手伝普請の費用は、大名にとって重い負担でした。
また幕府は、京都所司代を置いて朝廷を監視し、禁中並公家諸法度を定めて、天皇は学問に専念することや、朝廷の役割などを示しました。
解説
旗本と御家人
徳川氏の家来のうち1万石未満で直接将軍に会うことができる者を旗本、できない者を御家人とよびます。
時代で変化しますが、旗本は約5000人、御家人は約1万7000人で、その家臣を含めて約8万人になりました。
武家諸法度
文武弓馬の道にひたすら励むようにせよ。
城は、たとえ修理であっても必ず幕府に報告せよ。
ましてや、新しく城を築くようなことは、固く禁止する。
一、幕府の許可がなく、勝手に婚姻を結んではいけない。
[以上元和]A
一、大名が自分の領地と江戸とを交代で住むように定める。
毎年4月に江戸へ参勤せよ。
事を企て、同盟の誓約をしてはならない。
500石以上積める船を、つくることを禁止する。
[以上寛永令]B
A 1615年に、家康の命令で作成され、秀忠が発布したもの
B 1635年に、家光の命令で追加され、発布したもの
江戸幕府は大名や朝廷を統制するために、どのようなしくみをつくったのだろうか。
江戸時代の幕開け
豊臣秀吉の死後、勢力を伸ばしたのは、関東を領地にしていた徳川家康でした。
1600年に家康は、豊臣氏の支配をそのまま続けようとする石田三成らの大名を、関ヶ原の戦い(岐阜県)で破り、全国支配を強めていきました。
そして、1603年に朝廷から征夷大将軍に任命された家康は、江戸(東京都)に幕府を開きました(江戸幕府)江戸時代の始まりです。
家康は1615年に豊臣氏を滅ぼし(大阪の陣)、徳川氏が約260年間にわたって全国を支配する基礎をつくりました。
江戸幕府のしくみ
幕府が直接支配する直轄地を幕領といい、将軍直属の家来の領地も含めると、江戸時代初めの石高は約400万石で、やがて全国のおよそ4分の1にあたる約700万石に及びました。
また、大阪・京都・奈良・長崎などの主要都市や、全国の主な鉱山も直轄地とし、収入源としました。
さらに、金・銀・銅の貨幣を発行し、貿易も独占しました。
将軍は、直属の家来である旗本・御家人を中心に強大な軍事力をもっていました。
幕府の政治は、将軍が任命した老中が行い、若年寄がそれを補佐し、三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)が職務を分担して行いました。
幕府と藩の関係
将軍から1万石以上の領地を与えられた武士を大名とよび、大名は幕領以外の土地を支配しました。
大名の数は時代によって変動がありますが、江戸時代後半には約270に上りました。
大名には、徳川一門の親藩、初めから徳川氏の家臣であった譜代大名、関ヶ原の戦いのころから徳川氏に従った外様大名の区別があり、幕府の重要な役職には譜代大名や旗本が任命されました。
大名が支配する領域は藩といい、藩では独自の統治が認められました。
3代将軍徳川家光のころには、このような幕府と藩が全国の土地と人々を支配する幕藩体制のしくみが確立しました。
大名や朝廷の統制
幕府は武家諸法度を定め、築城や大名どうしの結婚などに制限を設けました。
法度に違反した大名に対しては、国替や藩の取り潰し(改易)などを行いました。
さらに、家光のころには参勤交代の制度が整えられ、多くの大名は1年おきに江戸と領地を行き来し、その妻や子は江戸の屋敷に住むよう命じられました。
また、幕府は御手伝普請とよばれる、河川や江戸城を整備するなどの土木工事を大名に命じました。
参勤交代や御手伝普請の費用は、大名にとって重い負担でした。
また幕府は、京都所司代を置いて朝廷を監視し、禁中並公家諸法度を定めて、天皇は学問に専念することや、朝廷の役割などを示しました。
解説
旗本と御家人
徳川氏の家来のうち1万石未満で直接将軍に会うことができる者を旗本、できない者を御家人とよびます。
時代で変化しますが、旗本は約5000人、御家人は約1万7000人で、その家臣を含めて約8万人になりました。
武家諸法度
文武弓馬の道にひたすら励むようにせよ。
城は、たとえ修理であっても必ず幕府に報告せよ。
ましてや、新しく城を築くようなことは、固く禁止する。
一、幕府の許可がなく、勝手に婚姻を結んではいけない。
[以上元和]A
一、大名が自分の領地と江戸とを交代で住むように定める。
毎年4月に江戸へ参勤せよ。
事を企て、同盟の誓約をしてはならない。
500石以上積める船を、つくることを禁止する。
[以上寛永令]B
A 1615年に、家康の命令で作成され、秀忠が発布したもの
B 1635年に、家光の命令で追加され、発布したもの
歴史教科書 126ページ 2 朱印船貿易から貿易統制へ
学習課題
幕府は、盛んになっていた貿易やキリスト教の布教に、どのように対処していったのだろうか。
東南アジアと朱印船貿易
徳川家康は、朝鮮と交流のあった対馬(長崎県)の宗氏に交渉を命じて、豊臣秀吉の出兵以降、関係が壊れていた朝鮮との国交を回復しました。
明とも国交を回復しようとしましたが、正式な貿易はできませんでした。
他方、東南アジアとの貿易は、秀吉のころに引き続いて盛んに行われました。
家康は、国交の回復だけでなく、貿易の統制も目指しました。
そこで、外国と貿易する大名や豪商に、海外への渡航を許すという証書(朱印状)を与えて、収入の一部を幕府へ納めさせました(朱印船貿易)。
また、東南アジアの国々に対しても、朱印状をもつ船(朱印船)の安全を保証するよう求めました。
17世紀に入るとヨーロッパで台頭してきたオランダやイギリスからの貿易の求めにも応じました。
これらの貿易を通じて、幕府は正式な貿易ができない明の生糸・絹織物なども輸入し、日本からは主に銀を輸出しました。
朱印船貿易の結果、多くの日本人が東南アジア各地に渡り、ルソン(フィリピン)・安南(ベトナム)・シャム(タイ)などの主な港や都市には日本町ができました。
また、国内でも唐人町とよばれる外国人居住区が、戦国時代から西日本の各地に成立していました。
キリスト教の禁止と貿易統制
家康は初め、キリスト教の日本への影響よりも、貿易の利益を優先していました。
しかし、神への信仰を重んじるキリスト教が幕府の支配の妨げになり、スペインやポルトガルによる侵略のきっかけにもなると考え、1612年に幕領で、次いで翌13年に全国でキリスト教を禁止し(禁教)、宣教師を国外へ追放したり、キリシタンを迫害したりしました。
さらに幕府は禁教を徹底し、貿易港を制限しました。
それでもキリシタンは減らず、幕府は、スペイン船の来航禁止や、キリシタンの捜索を行い、日本人の海外渡航と海外からの帰国を禁じました。
この結果、朱印船貿易も停止されました。
島原・天草一揆と宗門改め
禁教が進むなか、キリシタンが多かった島原(長崎県)と天草(熊本県)で、重い年貢の取り立てとキリシタンへの厳しい弾圧に抵抗して、1637年に人々が一揆を起こしました(島原・天草一揆)。
徳川家光は大軍を送ってようやくしずめ、1639年にはポルトガル船の来航も禁止しました。
この一揆のあと、領民が仏教徒であることを寺院に証明させる宗門改めが強化されました。
禁教を目的として帳簿がつくられましたが、やがてキリシタンが見つからなくなると、結婚・出生・死亡や移転などを記した戸籍としても用いられました。
幕府は、盛んになっていた貿易やキリスト教の布教に、どのように対処していったのだろうか。
東南アジアと朱印船貿易
徳川家康は、朝鮮と交流のあった対馬(長崎県)の宗氏に交渉を命じて、豊臣秀吉の出兵以降、関係が壊れていた朝鮮との国交を回復しました。
明とも国交を回復しようとしましたが、正式な貿易はできませんでした。
他方、東南アジアとの貿易は、秀吉のころに引き続いて盛んに行われました。
家康は、国交の回復だけでなく、貿易の統制も目指しました。
そこで、外国と貿易する大名や豪商に、海外への渡航を許すという証書(朱印状)を与えて、収入の一部を幕府へ納めさせました(朱印船貿易)。
また、東南アジアの国々に対しても、朱印状をもつ船(朱印船)の安全を保証するよう求めました。
17世紀に入るとヨーロッパで台頭してきたオランダやイギリスからの貿易の求めにも応じました。
これらの貿易を通じて、幕府は正式な貿易ができない明の生糸・絹織物なども輸入し、日本からは主に銀を輸出しました。
朱印船貿易の結果、多くの日本人が東南アジア各地に渡り、ルソン(フィリピン)・安南(ベトナム)・シャム(タイ)などの主な港や都市には日本町ができました。
また、国内でも唐人町とよばれる外国人居住区が、戦国時代から西日本の各地に成立していました。
キリスト教の禁止と貿易統制
家康は初め、キリスト教の日本への影響よりも、貿易の利益を優先していました。
しかし、神への信仰を重んじるキリスト教が幕府の支配の妨げになり、スペインやポルトガルによる侵略のきっかけにもなると考え、1612年に幕領で、次いで翌13年に全国でキリスト教を禁止し(禁教)、宣教師を国外へ追放したり、キリシタンを迫害したりしました。
さらに幕府は禁教を徹底し、貿易港を制限しました。
それでもキリシタンは減らず、幕府は、スペイン船の来航禁止や、キリシタンの捜索を行い、日本人の海外渡航と海外からの帰国を禁じました。
この結果、朱印船貿易も停止されました。
島原・天草一揆と宗門改め
禁教が進むなか、キリシタンが多かった島原(長崎県)と天草(熊本県)で、重い年貢の取り立てとキリシタンへの厳しい弾圧に抵抗して、1637年に人々が一揆を起こしました(島原・天草一揆)。
徳川家光は大軍を送ってようやくしずめ、1639年にはポルトガル船の来航も禁止しました。
この一揆のあと、領民が仏教徒であることを寺院に証明させる宗門改めが強化されました。
禁教を目的として帳簿がつくられましたが、やがてキリシタンが見つからなくなると、結婚・出生・死亡や移転などを記した戸籍としても用いられました。
地理教科書 64ページ 2 巨大な人口が支える中国
学習課題
中国の経済はどのように発展したのでしょうか。
また、どのような課題があるでしょうか。
巨大な人口がもたらす発展
中国の人口は約14億人で、東部の平野に集中しています。
中国人の約90%が漢族で、ほかの少数民族は主に西部で生活しています。
東部の平野では農業が盛んで、長江流域の華中の地域や、チュー川(珠江)流域の華南の地域では、稲作や茶の栽培が、黄河流域の華北の地域や東北地方では、小麦や大豆などの畑作が行われています。
農作物が育ちにくい西部は牧畜が中心です。
1970年代末まで、中国の農業や工業は政府の計画に沿って生産が行われていましたが、国の経済的な発展につながりませんでした。
そこで、1980年代ごろから改革が進められ、シェンチェン(深圳)やアモイなどに、外国企業を受け入れる経済特区を設けたり、シャンハイ(上海)やティエンチン(天津)などに、外国の企業と共同で経営する工場を造ったりして、工業化を進めました。
こうして中国は、外国企業の進出を積極的に受け入れながら、巨大な人口を背景に、賃金が安く豊富な労働力を生かして工業製品を生産し、世界各地に輸出する工業国に成長したことで、「世界の工場」とよばれるようになりました。
しかし、長年にわたる「一人っ子政策」などの影響で人口増加が抑えられてきたため、少子高齢化も急速に進んできています。
都市化と環境問題
経済の成長によって、農村からの出かせぎ労働者などが集まったことで、多くの都市では人口が増加し、都市の周辺では工場や住宅の建設が相次ぎました。
こうした急速な都市化に環境対策が追いつかず、工場や自動車、家庭からの排煙や排ガス、排水による大気や河川、湖の汚染など、深刻な環境問題が起こりました。
中国政府は、工場への規制を強めたり、再生可能エネルギーを積極的に導入するなど、環境対策に力を入れています。
格差の拡大と内陸部の開発
沿岸部の都市が成長する一方で、工業化が後れている内陸部の農村には仕事と収入を求めて都市に出かせぎに行く人々が多くいます。
中国では、こうした沿岸部と内陸部との経済格差の広がりが大きな問題になっています。
中国政府は、地域間の格差をなくすために、2000年ごろから内陸部の大規模な開発を始めました。
鉄道や道路などの交通網を整備し、自動車工場などを建設することで、多くの人に仕事を生み出す産業の育成にも力が入れられています。
もっと解説 経済特区
経済特区は中国の沿岸部に特別に設けられた地区のことで、外国から資本や技術を積極的によびこむために税金を安くするなどして、多くの外国企業が進出しました。
もっと解説 一人っ子政策
1970年代末から、一組の夫婦の子どもを一人に制限する「一人っ子政策」が行われてきました。
少子高齢化が急速に進んだため、全ての夫婦が3人までの子どもを持つことが認められるようになりました。
中国の経済はどのように発展したのでしょうか。
また、どのような課題があるでしょうか。
巨大な人口がもたらす発展
中国の人口は約14億人で、東部の平野に集中しています。
中国人の約90%が漢族で、ほかの少数民族は主に西部で生活しています。
東部の平野では農業が盛んで、長江流域の華中の地域や、チュー川(珠江)流域の華南の地域では、稲作や茶の栽培が、黄河流域の華北の地域や東北地方では、小麦や大豆などの畑作が行われています。
農作物が育ちにくい西部は牧畜が中心です。
1970年代末まで、中国の農業や工業は政府の計画に沿って生産が行われていましたが、国の経済的な発展につながりませんでした。
そこで、1980年代ごろから改革が進められ、シェンチェン(深圳)やアモイなどに、外国企業を受け入れる経済特区を設けたり、シャンハイ(上海)やティエンチン(天津)などに、外国の企業と共同で経営する工場を造ったりして、工業化を進めました。
こうして中国は、外国企業の進出を積極的に受け入れながら、巨大な人口を背景に、賃金が安く豊富な労働力を生かして工業製品を生産し、世界各地に輸出する工業国に成長したことで、「世界の工場」とよばれるようになりました。
しかし、長年にわたる「一人っ子政策」などの影響で人口増加が抑えられてきたため、少子高齢化も急速に進んできています。
都市化と環境問題
経済の成長によって、農村からの出かせぎ労働者などが集まったことで、多くの都市では人口が増加し、都市の周辺では工場や住宅の建設が相次ぎました。
こうした急速な都市化に環境対策が追いつかず、工場や自動車、家庭からの排煙や排ガス、排水による大気や河川、湖の汚染など、深刻な環境問題が起こりました。
中国政府は、工場への規制を強めたり、再生可能エネルギーを積極的に導入するなど、環境対策に力を入れています。
格差の拡大と内陸部の開発
沿岸部の都市が成長する一方で、工業化が後れている内陸部の農村には仕事と収入を求めて都市に出かせぎに行く人々が多くいます。
中国では、こうした沿岸部と内陸部との経済格差の広がりが大きな問題になっています。
中国政府は、地域間の格差をなくすために、2000年ごろから内陸部の大規模な開発を始めました。
鉄道や道路などの交通網を整備し、自動車工場などを建設することで、多くの人に仕事を生み出す産業の育成にも力が入れられています。
もっと解説 経済特区
経済特区は中国の沿岸部に特別に設けられた地区のことで、外国から資本や技術を積極的によびこむために税金を安くするなどして、多くの外国企業が進出しました。
もっと解説 一人っ子政策
1970年代末から、一組の夫婦の子どもを一人に制限する「一人っ子政策」が行われてきました。
少子高齢化が急速に進んだため、全ての夫婦が3人までの子どもを持つことが認められるようになりました。
