短歌に親しむ
栗木 京子
短歌は、千三百年以上前から受け継がれてきた日本の詩で、五・七・五・七・七の三十一音から成っています。同様の詩の形として、五・七・五の十七音から成る俳句があります。
短歌や俳句に共通する五と七のリズムはとても親しみやすく、口ずさんでみたくなる魅力をもっています。
短歌や俳句が現在に至るまで多くの人々に愛されているのは、意味を伝えるだけではなく、調べに気持ちを託すことができるからといえるでしょう。
では、短歌を鑑賞してみましょう。
くれなゐの
二尺にしゃく伸のびたる 薔薇の芽めの
針はりやはらかに
春雨のふる
二尺にしゃく伸のびたる 薔薇の芽めの
針はりやはらかに
春雨のふる
正岡子規
四季の変化に富む日本では、季節の情感を大切にしながら短歌が作られてきました。
この歌は、「くれなゐ(紅色)」という色彩や「二尺(約六十・六センチメートル)」という長さによって、薔薇の芽を丁寧に描写しています。
さらに、薔薇のとげを「針」と表現し、「針やはらかに」と続けたところが巧みです。
新芽のとげのみずみずしく柔らかな様子が伝わってきます。
「くれなゐの」「薔薇の芽の」「春雨の」と、助詞「の」が続いていることも、歌に調べの優しさを添えています。
夏のかぜ山よりきたり三百の牧の若馬耳ふかれけり
与謝野晶子
こちらも季節感が生き生きと伝わってくる歌です。
牧場の若馬たちが気持ちよさそうに風に吹かれています。
「三百」は、たくさんという意味で使われていますが、「たくさんの牧の若馬」より「三百の牧の若馬」と表現したほうが鮮やかな印象を残します。
数量や順序を示す語を「数詞」といいますが、ここでは数詞を生かすことで情景に臨場感が備わっているといえるでしょう。
遠い山に向けられていた視線が、やがて牧場へと下り、最後には目の前の若馬の耳に移っていきます。
こうした動きが歌の中に爽やかな流れを作り、言葉の背後から生命への賛歌が聞こえてくるようです。
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
斎藤茂吉
生きる喜びを歌った晶子の歌に対し、茂吉のこの歌では死にゆく母を見つめています。
一九一三(大正二)年五月、母危篤の知らせを受け、作者は東京から実家のある山形県に帰りました。
母の看病をしていると、遠くの田から蛙の声が聞こえてきます。
その声は、まるで天まで届くように感じられたのでしょう。
「しんしんと」は夜がふけてゆく状況とともに、蛙の声が空に響く様子を表しています。
母の死と向き合う悲しみを、ふるさとの大きな自然が包み込んでいます。
では、ここからは、今日の短歌を読んでみましょう。
鯨の世紀恐竜の世紀いづれにも戻れぬ地球の水仙の白
馬場あき子
二十世紀から二十一世紀へ時代が移るときに作られた歌です。
地球上に人類が誕生するよりもはるか前に、鯨や恐竜が栄えている時代がありました。
人間は今、我が物顔で新しい世紀へ歩みだしていますが、それでよいのだろうか。
遠い昔の地球は、もっと安らかで悠然としていたのではないか。
そんな問いかけが聞こえます。
そして、この歌の優れた点は、「水仙の白」と歌い収めたところです。
鯨の世紀、恐竜の世紀といった、
とてつもなく長い時間が、「水仙の白」という一滴の時間の中に、すっと回収されていきます。
大きな時間と小さな時間が、一首の中でダイナミックにとけ合っているのがわかって、思わずため息が出ます。
短歌は短い詩ですが、このように壮大なことを表現することもできるのです。
蛇行する川には蛇行の理由あリ急げばいいってもんじゃないよと
俵万智
川でも道でも、蛇行するよりまっすぐのほうがむだなく早く進めます。
けれども作者は、急ぐだけがいいわけではないと気づいたのです。
曲がりくねったり寄り道をしたりするのは、必ず理由のあることなのだ、と。
それは生きることそのものと重なり合うにちがいありません。
「急げばいいってもんじゃないよと」という口語の息遣いには、すぐ近くから呼びかけてくるような温かさがあり、この歌を読むたびに勇気がわいてきます。
このように短歌では、目の前の花の美しさから地球や人類の未来に至るまで、さまざまなことを表すことができます。
短歌を鑑賞したり、自分で作ってみたりすることで、あなたの世界はきっと豊かになることでしょう。
